いまりの語り部屋

いまり(伊万里楽巳)が好きな作品について語るブログ

設計・お散歩・そしてお酒|マンガ『一級建築士矩子の設計思考』

3本目はこれまでで一番ニッチ&マイナーなお仕事マンガ。独立して個人事務所を構えたばかりの駆け出し建築士・古川矩子の仕事ぶりを描いた『一級建築士矩子の設計思考』を紹介します。

記事を公開するたびに「次はこの作品を取り上げようかなー」と考えてはいるのですが、気づいたら別の作品の記事が出来上がっています。「好きな作品を好きなように語る」がコンセプトなので、語りたくなったタイミングで語るのがよいのでしょう。

それでは今回もお付き合いください。

一級建築士矩子の設計思考』のここが好き
  1. 「駆け出し建築士」のニッチなお仕事マンガ
  2. 極めて個人的な「ありえたかもしれない未来」へのちょっとの憧れ
  3. 酒飲みマンガ・亀戸ローカルマンガとしての側面

基本情報

あらすじ

【上京女子の、東京亀戸設計ライフ!!】

古川矩子(こがわかなこ)は20歳で青森から上京。 建築とお酒が大好きな彼女は7年間、設計事務所に勤めた後に独立。東京亀戸に“立呑み”併設の個人事務所を設立した。

お金は無いけど、理想とお酒はある!心(じょっぱり)に、火をつけろ!

知られざる『一級建築士』の実務が描かれる、唯一無二のプロフェッショナル物語!!

一級建築士』『1級建築施工管理技士』資格を実際に有する著者、魂の会心作!!!

一級建築士矩子の設計思考 - 株式会社日本文芸社より

読んだきっかけ

あれ、Amazonのリコメンドで見たのと店頭で目にしたの、正確にはどっちが先だったっけ……?

とにかく1巻刊行後に書店の建築系工学書のコーナーに平積みにされていたのを見かけて興味を惹かれ、電子書籍で購入した。

ここ好きポイントその1:「駆け出し建築士」のニッチなお仕事マンガ

実は私、いわゆるお仕事マンガが好き。知らない世界のプロの仕事ぶりに(フィクションとはいえ)触れることで勉強になるし、自分を顧みて「見習わなければ!」と元気をもらえたりする。

本作はその中でもとびきりマイナーであろう「独立したての建築士」をモチーフにしている。似たような業界だと建設土木寄りの『解体屋ゲン』を読んだことがあるが、それくらいしか心当たりがない。ニッチにならざるを得ず、掲載の場を得るのが大変だ。

 

しかしそのニッチさゆえに「普段は読まれないような層」に響いて思わぬヒットを生み出すことも。本作もマンガ読みではなく、建築系のコミュニティで話題になって注目を集めたらしい(実際、書店ではマンガコーナーではなく工学書のコーナーで平積みで紹介されていた)。

単行本発売後は建築の専門雑誌で紹介され、6刷(2巻の巻末広告より)を超えて連載継続を勝ち取った。すごい!

単行本出るまでは「連載継続には移籍やむなし」の空気だったらしい|2巻あとがきp186より

※冒頭リードで「一番ニッチ&マイナー」と書いちゃったけど、こう考えると実は結構知名度ある作品だったかも? 失礼しました……。

 

本作の主役は独立開業したがばかりの一級建築士の古川矩子(こがわかなこ)。

古川矩子、7年目にして念願の個人事務所を構える|1巻p5より

建築士といえば建物の設計をするのが生業の国家資格だが、駆け出しの矩子にはなかなかそんな仕事は回ってこない。既存物件の実測とかマンション管理へのアドバイスとか。

むしろそれが「建築士の仕事のリアル」を現しているようで興味深い。

第2話|見えないものを見る力:実測

不動産屋さんに紹介された最初のお仕事は物件の実測|1巻p29より

正確な図面は正確な測定から|1巻p35より

「この建物はもっと素敵になれる!」|1巻p42-43より

不動産屋さんに紹介されたお仕事は物件の実測。今後の活用を検討するために現状の寸法を正しく測り直す。

建物を良く理解しているからこそ見えないところも見抜いて正確にリバースエンジニアリングできる。しかも綺麗に図面に描ける。すごい。

さらに頼まれた実測だけにとどまらず、この物件をより良くするための提案まで発展させているところにプロフェッショナルとしての姿勢を感じる。

 

こうしたことができるのも実務や資格取得を通じての真面目な勉強があってこそ。専門資格を持っている人が積み重ねてきた学びと経験を思うと改めて尊敬の念がわいてくる。

一級建築士試験の直前復習をする矩子たち|2巻p83より

 

この実測のエピソードは全体の中でも特にお気に入り。第2話のこれで一気に作品に引き込まれた。

出来上がった実物としての部屋・空間に向き合い、作り手の狙いや工夫を受け取り、さらに当時からの状況の変化も踏まえて新しい可能性を見出す。この取り組みが素敵。

もともと「ポテンシャルを引き出す」ことに魅力を感じる自分だけれど、記事にするためにしっかり向き合ったからこそ言語化できた点かもしれない。

第7話|設計事務所の1日:仲間達

とはいえやはり建築士の仕事のハイライトといえば設計製図。独立後のお仕事としての設計は第9話の個人住宅(知り合いの弟夫妻の家)だけど、個人的には第7話のメゾネット集合住宅の話が好き。

独立前、休憩時間に落書きした集合住宅の別案をチーム内でプレゼン|1巻p140-144より

作中でも「共用空間を作れば住民同士のコミュニケーションが生まれるなんて机上論」とつっこまれているが、それでもこのエレベーターホールには魅力を感じた。メゾネットの階段に窓があって気配を感じられるのが素敵。

自分の部屋を移動するのに外部からの視線を気にしなければならないのは窮屈かもしれないけど、第3話で取り上げていた「住吉の長屋」のエッセンスを取り入れているともいえるのかも?

もし実際にあれば正直住んでみたい!(でもミニキッチンは窮屈すぎるから標準サイズでお願い!)。

安藤忠雄の名建築「住吉の長屋」毀誉褒貶あれども多くの人を惹きつけている|1巻p61-62より

ここ好きポイントその2:極めて個人的な「ありえたかもしれない未来」へのちょっとの憧れ

二つ目の理由はかなり個人的なポイントに対して。実は私、大学時代は建築学を専攻していた。修士の途中で専攻領域を変える決断をして別の大学院に入り直し、最終的にマーケティング系の仕事についたが、今でも建築分野への憧れはある。

こんな風に居酒屋を設計論・建築論を交わしたり、資格の受験勉強で友達を作ったりする未来もあったのかなー、なんて。

職場の先輩・後輩と設計談義|1巻p150-151より

資格予備校のグループ学習仲間との決起集会|2巻p76-77より

 

仕事は楽しいことだけじゃない。責任へのプレッシャーで眠れない夜もあったかもしれない。

でも「憂鬱でなければ、仕事じゃない(憂鬱さを感じるほど真剣に取り組んでこそ良い仕事ができる)」という言葉もある。乗り越えたからこその喜びもある。

新人矩子、初めての施行監理|1巻p120-121,130より

 

建築専攻だったとは言っても、当時から設計製図は苦手でいわゆる建築家にはなれそうにないなーと思っていた。ここの黒田さん(勤め人時代の矩子が一級建築士試験を受ける時の戦友)の気持ちとてもよくわかる。

「最初の1本の線」を引くことがいかに難しいことか|2巻p114より

逆に矩子は設計大好き。同級生にも確かにこういうタイプはいて、こういう人が建築設計を生業にしていくんだなと思わされた。

水を得た魚とはこのことか|2巻p107より

 

しかし時間が経ってから振り返ると、まっさらな土地に新築を建てるのではなく中古物件のリフォーム・リノベーションをやる方なら自分の性にもあって上手くやれていたような気もしてくる。

すでにある部屋や空間の使われ方を再定義し、ポテンシャルを引き出す。例え建築が対象でなくとも、そういったことに仕事として取り組んでいきたい。

同じ部屋でも使い方は無限大|2巻p10-11より

ここ好きポイントその3:酒飲みマンガ・亀戸ローカルマンガとしての側面

あらすじにもあるように、自分の事務所を「立ち呑み併設」として作った矩子はかなりの呑兵衛、そして散歩好き。建築ネタだけでなく、そうしたお酒ネタや所在地の江東区亀戸ローカルネタも面白い。

本作最初のシーン。上京前の矩子は長距離バスのターミナルでカップ酒をあおる|1巻p4より

 

このお酒飲んでみたい。ヨーグルトみたいな味わい……マッコリに近いのか?でもまた違ったテイストなんでしょうね。

植木屋限定!やまヨ印逆さ彌右衛門生|2巻p50-52より

植木屋特注!やまヨ印逆さ彌右衛門生 | 植木屋商店

R5の新酒は「令和6年Gウィーク頃の予定」とのこと。カレンダーに予定いれておく?

 

知識があれば世界の解像度が上がる。ちょっとした景色からでも意味を見出せるようになるのは楽しい。

自分も建築学生時代は陣内秀信先生の『東京の空間人類学』とか隈研吾先生『新・都市論TOKYO』とか読んで街をひたすら歩き倒していた時もありました。

明治通りに沿ってぶらぶらお散歩|1巻p92-93より

 

お散歩の目的地は近所の団地、その中のクラフトビールのお店。外席でビールを飲みながら敷地で遊ぶ子どもたちを見守ったり。絵からでも良い空気が流れているのを感じます。

同じ間取りで繰り広げられる人それぞれの生活|1巻p97-98より

さいごに

この手の作品はだいたい作者の実体験(前職とか)が反映されていて、リアリティの精度が高いのも面白い。本作も作者の鬼ノ仁先生は『一級建築士』『1級建築施工管理技士』資格を持って実務経験があったり、マンション管理組合の理事長をしたりもしているようだ。

一方で「話としての興味深さをエンターテイメントとしての面白さ・マンガとしての面白さに落とし込む」あるいは「マンガ映えするネタを出す」のが難しいし、本作にも苦労のあとが見える(実は「独立後の矩子が建築士のお仕事をしているエピソード」はあんまり多くなくて、直接お金にならないような人助けや独立前の設計会社務め時代の話が地味に多い)。

そういう意味で「マンガとしての純粋な完成度や面白さ」という意味では少し物足りないところがあるかもしれない。でも「自分個人にはとても刺さった」「読めて良かったと感じた」という意味で取り上げたかった。

鬼ノ仁先生が(多分)ネタ出しに苦労しながら描いた次巻は2024年4月発売予定。少しでも興味がわいたなら既刊とあわせてぜひ読んでみてください!